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生涯学習講座
 大垣藩ものがたり 〜初代藩主 戸田氏鉄(とだうじかね)の藩づくりから〜
今月の生涯学習講座は「大垣藩ものがたり〜初代藩主 戸田氏鉄の藩づくりから〜」です。戸田氏鉄を知っている人はかなり少ないのではないかと思います。江戸時代初期の大名で1635年(寛永12)60歳の時に、譜代大名(関ヶ原の戦い以前に、徳川家康の家臣となった大名)として尼崎藩から大垣の地に配置され、大垣藩の基礎をつくった人物です。実は大垣藩は美濃国最大の石高10万石を持ち、江戸時代の235年間、徳川幕府の命を受け西美濃地方一帯を統治していました。歴代藩主は殖産興業・治山治水事業をはじめ人材育成(学問奨励)に力を注ぎ、実績をあげ「民政の安定」に努めました。今回は、戸田氏鉄という一地方の政治家が民衆に対して思いをもち、どのような政治を行なったのかを見ていきたいと思います。
戸田氏鉄(とだうじかね 1576〜1655)
三河国(愛知県)に生まれる。祖父の代から徳川家康に仕える。関ヶ原の戦いに出陣。譜代大名として、近江国大津、近江国膳所、摂津国尼崎を経て、美濃国大垣藩主となった。約235年続く大垣藩戸田家の基盤を築いた。

(1)江戸時代の武士と当時の美濃
関ヶ原の戦い後、石田三成を倒した徳川家康は、幕府を開き政権固めを行い、戦を必要としない世の中を作っていきます。このような状況になると困るのが、戦国時代を生き抜いた武士たちです。兵士としての武士が必要でなくなっていきます。家康はその武士たちの配置転換を行います。兵士から、政治を行う行政マンとして働くようになります。文書などを作ったりする事務職を行い、給料をもらうという武士のサラリーマン化が進みます。したがって、江戸時代の武士、特に多くの領地を与えられた大名が生きていくためには、その場所を治める「行政手腕」が問われます。武術だけが強くても、行政手腕のない大名は没落していき、幕府によって石高を減らされ、配置替えさせられます。(つまり左遷です)

関ヶ原の戦いの後、美濃国は、幕領、幕府の家臣に与えた領地である旗本領、徳川家の親戚である尾張藩の領地が細かく分け入っていました。大垣藩内にも、尾張藩領の土地がたくさんありました。関ヶ原の戦いでは美濃国の諸大名の多くが西軍に味方するなど、家康は美濃国の支配に大変注意を払っていました。日本の中心地である美濃が一致団結して大きな勢力となることを恐れた家康は交通の要所を、幕領や尾張領としていました。
江戸時代の美濃国の様子 江戸時代の西濃地方の様子
江戸時代の美濃国の様子 江戸時代の西濃地方の様子
(2)氏鉄の業績
正直なところ、この大垣を含む西美濃を治めるのは非常に難しかったと思います。幕府側の監視があるのもそうですが、当時の江戸時代の地図を見ればわかります。河川が複雑に入り組んでいて、輪中も多く、今の地形とはまったく異なっています。つまり、洪水多発地域であったのです。洪水が頻繁に起こると、修復などで余分な出費がかさみます。そうなると藩の財政が圧迫します。

氏鉄は大垣藩自体の生産力向上のために、農政政策を行います。農民を勝手に何処かに行かせないために、行動を制限します。また農民の生活を安定させるために、「借金はするな、ばくちはするな」などの規制を出します。新田開発を行い、大洪水が起こった際には、水門を造っています。

大垣藩での実績の裏には前任地尼崎での実績があります。尼崎藩時代にも農政政策を行なっており、成果を上げています。当時尼崎は湿地帯が多く、洪水も多い地域でしたが、尼崎を流れる神崎川の支流の川幅を開削し、川の流れを良くしています。後世の人が称え、その川を氏鉄の通称左門を取って「左門殿(さもんど)川」と名づけました。

幕府が、治水工事が必要である大垣に配置替えを行ったことからも、氏鉄は優れた行政マンであったことがうかがえます。
左門橋 左門殿川
左門橋(左)と左門殿川(兵庫県尼崎市)
(3)氏鉄の思想
戸田氏鉄が社会・経済・文化そして環境の中で、いかなる考え方をもって藩統治に立ち向かったのか。氏鉄はまた儒教(古代中国の孔子が説いた政治・道徳の教え)に関心を持ち、儒学者を藩に招いて教えを乞うなどしていました。儒教の影響を受けた氏鉄は、晩年に自分の家臣や子孫に残した書の中に、『志学文集』があります。人としてこうあるべきという姿を示したものです。

(1) 道に志す者は内を重んじ外を忘る。悪衣悪食を恥づる者は、未だ能く外を忘るるあたはざるなり、その外にしたがって内に得るなし。『志学文集』
(あることを達成しようと努力している人は、自分の中身を大切にし、外見など忘れているものである。汚れた服や貧しい食事を恥ずかしいと思う人は、世間体を気にしてばかりいる。世間体を気にしているようでは、結局自分のためになることは一つもない。)

(2) 玉琢かざれば器を成さず。人学ばざれば道を知らず。これ故に古の王は国を建て民に君するに教学を先とす。『志学文集』
(すばらしい宝石の原石でも、磨いて仕上げなければ宝石とはならない。人も同じように、勉強しなければ道理を知らない未熟者のままである。そのため昔の王は、国家を建設して政治をする前に、しっかり勉強した。)

また自分の家臣や子孫に対して具体的な行動基準を示した『八道集』には、次のように氏鉄のメッセージが書かれています。

明君(立派な君主)の条件として
・民を憐れみ、政を明らかにす、故に民の仰ぐこと父母の如し
 (民衆をかわいがり、政治をはっきりさせる。そうすることで、民衆は主君を父母のように敬う)

闇君(愚かな君主)の条件として
・色欲をほしいままにして自らを賢となす
 (色欲を自分の権力を使って思うままに求めるが、表向きには自分は賢君であると振舞っている)
・厚く罪過を罰し、薄く至功を賞す
 (あやまちを犯した者には過剰に罰し、功績のあった者には少ない褒賞しか上げない)
・古訓を捨て、当世の新なるを用う
 (古くから伝わっている先人たちの言葉を捨て、新しいものばかりを取り入れる)

(4)最後に
戸田氏鉄は徳川家から信頼される譜代大名でした。しかし配置された大垣は、幕府側の領地も多く、また洪水多発地域であり、統治するのが難しい場所でした。氏鉄は幕府の監視もある中で行政実績を上げなくてはならないというプレッシャーの下で実績を上げていきました。没落した大名は配置替えを余儀なくされる中、戸田家が大垣藩の藩主として君臨し続けていく基盤をつくり上げていったのです。氏鉄の考え方の背景には、人の上に立つ立場として、権力を行使する前に「自分の身を修める」(修身)という信念を持って行動していったのです。
(生涯学習部 秋枝博士の講義より)
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